武道と無意識

皆さんは、人の心の中には自分では普段意識していない無意識の世界があることをご存知ですか?

自分の心は自分で意識でき、自分でコントロールし、自分の行動は自分で決めていると考えるのが普通なのですが、実は人の心の中には自分では意識できない深層の心理(無意識)があり、普段行っている何気ない動作や行動、考え方は、これらの強い影響を受けているのです。

「そんなことが、格闘技(武道)に何の関係があるんだ?」と、皆さんはそう思うかもしれませんが、例えば試合中、自分では意識できずに負けを呼び込んでしまうような動きをしているとしたら、どう思いますか?
また、試合に限らず、人生におけるピンチの場面で、自分の判断がやはり無意識に支配されていて、適切な判断に誤りが生じてしまうとしたら、大変恐ろしいことだと思いませんか?
実は武道をはじめとする東洋の文化は、この無意識を意識が冷静に観察し、どう取り扱っていくのかということがテーマであった、といっても過言ではないのです。

体力の無い者が、体力の優れたものに勝つには、心の構造自体をよく知り,身体と心の関連性を自分自身と向き合うことの中から、理解していくことが大変重要であり、武道の理念である「柔よく剛を制す」を体現するために必要不可欠であると同時に、自らの心を成長させるために、もっとも大切なことなのです。

フロイト

19世紀の末、オーストラリア ウィーンの心理臨床家、皆さんもご存知とは思いますが、あの有名な、ジグムント・フロイトは、無意識の心理を仮定し、精神分析を提唱しました。
フロイトは、フランス留学中、ヒステリーの治療として、催眠療法を学び、患者の催眠状態を観察して、人の心の中に無意識の存在があることを確信したといいます。

催眠状態(意識と無意識のうち、意識の活動がとても弱まった状態と考えるとわかりやすいと思います)では、人は自分では意識していないのに、手が動いたり足が動いたり、また逆に、催眠中に「私が気合を入れるとあなたの足は動かなくなる」という暗示をかけられた場合、実際に催眠からさめた後で、催眠を掛けた人が気合を入れると、本人が意識的に動かそうとしても動かなくなってしまうこと(後催眠暗示)が観察されたのです。
深い催眠中の暗示は意識されないので、本人はなぜ足が動かないのか理解できません。

フロイトは、これこそ意識とは別のもう一つの心の世界があることの証拠と考えました。(触れていないのに相手が飛んでしまうというような武道の中には、上記のような後催眠暗示を利用したものが多いと考えられます。飛んでしまう人は大変素直に暗示にかかりやすい人であることが想像できます)

またフロイトは一見なんでもないような錯誤行為に、その人の無意識の真相を見ることができるとしています。
錯誤行為とは慌てていた時や焦っていた時の、ちょっとした失敗のことを言います。

実はその失敗にその人の本当の気持ち(深層の心理)が現れるのです。
日ごろの私たちのしぐさや言葉使い、行動は意識的にコントロールされています。
心の深層(無意識)は常に意識に抑えられていて、普段は意識には上がってこないのです。

しかし、抑える力が弱くなると、思わぬ場違いな言動や動作が意識にあがってきてしまうことがあります。
お酒を飲んでかなり酔っ払っているとき、睡眠中,もしくは慌てた時,焦っているときなどは、意識的な心のコントロールが弱まるので、深層の心理が場違いな言動や動作となり、飛び出してしまうことがあるのです。

これが錯誤行為と呼ばれる行動で、間違いに気づくと、人は直ちに意識的にコントロールしてこの間違いを訂正しますが、その人の本当の気持ち(深層の心理)は最初に間違えた言動や動作に表れているといえるのです。

このような例は、日常にもかなり多く見られます。
もしも彼氏や彼女(友達)が変なことを言ったとしたら、その言動が彼氏や彼女、友達の、真相の心理を表していると考えたほうがいいかもしれません。
ある旦那さんが、うっかり奥さんを、違う于女性の名前で呼んでしまい、浮気がばれて家庭崩壊につながり、社会的信用を失墜し人生の敗北者となるなどといった例が、これを端的に表していると言ってよいでしょう。(恐ろしい!くれぐれも世の男性諸君は気をつけましょう)。

コンプレックスと錯誤行為

武道もしくは格闘技、その他のスポーツに取り組んでいる皆さん、自分の周りに、練習(稽古)ではセンスも良くやたら強いのに、試合では力を発揮できないタイプの人はいませんか?

このような例は、先ほどの錯誤行為で考えてみると簡単に理解できますが、その前にもう少し「無意識」について説明してみたいと思います。

人間は生まれてから様々な経験や学習を通し、また、言葉の発達とともに自分という意識(自我)を獲得していきます。
しかし、人に起こりうる経験は、その人にとって必ずしも都合の良いものばかりではありません。
そのため、心の成長過程を通して、意識によって都合の悪い経験や体験から生まれた意識を、様々な方法(自我防衛メカニズム)を用いて、無意識のかなたに置き去りにし、押し込めてフタをし、忘れ去ろうとします。

無意識とは、ある意味において、意識(自我)が認めたくない思いや、他人に知られたくない欲求の貯蔵庫と言っていいでしょう。
もちろんそれだけではありませんが・・・。
そしてそれらのほとんどが普段意識化される事は無いのです。

分析心理学(フロイトの弟子 カール・グスタフ・ユングが興した心理学の系譜)では、人間の心に潜む無意識にとらわれを、コンプレックスと呼びました。
私達はしばしば、コンプレックスと言う言葉を劣等感という意味で用いますが、分析心理学では、コンプレックスとは無意識の中にある強い感情を伴ったイメージの塊のようなものと捉えています。
ここがポイントになります。
日常において、コンプレックスが意識化されることはほとんど無いのです。

さて先ほどの錯誤行為とは、どんなときに起こるのでしょうか?

車の運転を例にとりましょう。
私達は教習所に通い、ここがブレーキ、ここがアクセルというように、意識してその仕組みと操作を覚え、運転技術を習得していきます。
そして、運転するという動作を繰り返し繰り返し行い、無意識にすりこむようにする事により、特に意識しなくてもスムーズな動作が可能となり、助手席に座った友人と話をしながらでも運転ができるようになります。

このことは他のあらゆる技術を習得する行動の基本といってもよく、運転技術に限らず、武道やその他のスポーツも、同様の過程を経て技を習得していきます。(武道やスポーツの場合は、対象となるものがあまりににも不規則な動きのため、話をしながら競技をすることはできませんが・・・)

しかし、運転中に危機が生じると、完全に意識が飛んでしまい無意識が露出すると同時に、コンプレックスが意識の前面に上がってきます。

先ほども言いましたとおり、コンプレックスは、意識にとって認めたくない心の傷(失敗体験)や、いやな思いの反映なので、コンプレックスが意識の前面に出て動作化されると、危機回避とはあまりにもかけ離れた動作が運転動作に反映されることとなり、危機回避不可能(交通事故)な状態に陥ってしまい、下手をすると命を落としかねません。

実は格闘競技にはこのようなことが、競技中に頻繁に起きているのです。
他のスポーツと比べて格闘競技は、殴ったり,蹴ったり、首を絞めたりするわけですから、意識的に技を習得する稽古や練習時とは違い、かなりの恐怖心が伴います。
特にピンチの状態では本当に焦ってしまいます。

先ほどの運転動作の例と同様に、意識が飛んでコンプレックスが意識の前面に出てしまい、危機回避的な動作とはあまりにも程遠い動きをしてしまい、試合での勝利を失うこととなります。
旦那さんが何かで焦った瞬間、奥さんを違う女性の名前で呼んでしまったとしても、一生懸命言い訳をすれば何とかなる場合も多いのですが、(よく巷で聞く話です。ちなみに私はそういうことはありませんのであしからず……)格闘競技の場合はその瞬間に結果が決まってしまいます。(失敗が成功の母となればよいのですが……)

また、その結果自体を、何らかの理由をつけて認めたがらない場合や、負けたことを極端にまじめに受け止めすぎて心の傷となる場合、このどちらの例をとってもコンプレックスとなり、無意識の世界に沈殿し、似たような状況に陥ったときに、同じ失敗を繰り返してしまうという状況に追い込まれることとなります(反復脅迫)。

これは、当然先ほどから説明してきたとおり、格闘競技だけに起こることではありません。
失敗を成功の母とするか、反復脅迫というジレンマに陥ってしまうかは、まさに無意識に沈むコンプレックスとどう向き合っていくかが重要なポイントとなるのです。

格闘競技において、運動能力や身体能力の優れたものの中には、必ずしもそのようなアプローチをしなくても、確かに強い選手は沢山います。
しかし、そういう素質のある人間はほんの一握りであり、武道とは素質がある無いに関わらず、万人が成果を得るものでなければなりません。

格闘競技と武道のカテゴリーの違いは競技を通じて他者と向き合うのか、自らと向き合うのかという点から派生する人間観の違いであると言って良いでしょう。

武道は錯誤行為を通じて自らに潜む敗北の要素を,第二の自分を作り冷静に省みる科学、と言っていいかもしれません。
それ故私は、自らの流派名を「禅道会」と名づけました。
そうしたアプローチは、東洋文化の王道であるとも考えています。